
長良川鵜飼いの起源は飛鳥時代にまで遡る。日本書紀には舒明天皇11年(639年)の記録があり、古事記にも鵜飼いに関する記述が見られる。
しかし長良川における鵜飼いが本格的に記録に現れるのは奈良時代のこと。702年に編纂された『続日本紀』には、美濃国司が朝廷に鮎を献上したという記録が残されている。
平安時代に入ると鵜飼いは宮廷文化と密接に結びつくようになった。
醍醐天皇の延喜5年(905年)には長良川の鮎が宮中の重要な行事で使用されるようになり、これが現在まで続く「御料鵜飼い」の始まりとされている。
この制度により長良川の鵜匠は宮内庁式部職である「宮内庁御用鵜匠」という特別な地位を与えられ、現在でも毎年5月11日から10月15日までの期間中、捕獲した鮎を皇室に献上している。
戦国の世から江戸の栄華へ

戦国時代にはこの地を治めた織田信長が鵜飼いを手厚く保護した。
信長は長良川の鵜飼いを見物しその美しさに感嘆したと伝えられている。また豊臣秀吉も鵜飼いを愛好し朝鮮出兵の際には朝鮮半島まで鵜匠を連れて行ったという逸話も残されている。
江戸時代に入ると尾張徳川家の庇護のもとで鵜飼いは黄金期を迎えた。
特に尾張藩初代藩主の徳川義直は鵜飼いを深く愛し毎年夏には必ず長良川を訪れて鵜飼い見物を楽しんだ。この時代、鵜匠は武士の身分を与えられ、「鵜匠職」として藩の正式な役職となった。江戸時代後期には、鵜飼いは庶民の間でも人気を博し多くの文人墨客が長良川を訪れるようになった。
明治維新と伝統の危機、そして復活

明治維新は長良川鵜飼いにとって大きな転換点となった。廃藩置県により尾張藩の庇護を失い、鵜匠たちは生活の糧を失う危機に直面した。
しかし明治政府は日本の伝統文化の価値を認識し明治23年(1890年)に宮内省(現在の宮内庁)の管轄下に置くことで、鵜飼いの伝統を守った。
大正時代には鉄道の発達により観光客が増加し鵜飼いは新たな形で注目を集めるようになった。大正天皇も皇太子時代に長良川を訪れ、鵜飼いを観覧している。
昭和に入ると文学者や芸術家が相次いで長良川を訪れ鵜飼いをテーマとした作品を多く残した。
鵜匠という職業 – 世襲制に支えられる技の継承

現在、長良川には6人の鵜匠がおり全員が世襲制で技を継承している。
鵜匠になるためには幼少期から鵜の扱い方、舟の操縦、篝火の管理など多岐にわたる技術を習得する必要がある。鵜匠の装束は、風折烏帽子(かざおりえぼし)、腰蓑(こしみの)、胸当てという伝統的なスタイルで、これらはすべて平安時代から変わらぬ形を保っている。
鵜匠が使用する鵜は海鵜(うみう)で、茨城県の日立市十王町で捕獲されたものを使用している。1羽の鵜の寿命は15年から20年程度で、鵜匠は生涯にわたって同じ鵜たちと深い絆を築く。
技術と道具の世界 – 匠の技が生み出す調和

鵜飼いに使用される鵜舟は全長約13メートル、幅約2メートルの木造船で杉材を使用して職人が手作りで製作している。舟の先端は鋭く尖っており、川の流れに逆らって進むために最適化された形状となっている。篝火を燃やすための鉄製の籠「かがり」は舟の前方に設置され、松の割り木を燃料として使用する。
鵜を操るための手縄は「鵜縄(うなわ)」と呼ばれ、鵜の首に巻かれた輪と鵜匠の手を結ぶ重要な道具である。この縄の調整により鵜が飲み込める魚のサイズをコントロールし、大きな鮎だけを捕獲させることができる。1人の鵜匠が同時に操る鵜の数は通常10羽から12羽ですべての鵜を個別に識別し、それぞれの性格や能力に応じて適切に指示を出す技術はまさに職人芸といえる。
鵜飼の伝統技法

鵜飼いが行われるのは新月の夜に限られる。月明かりが強すぎると鮎が警戒して深く潜ってしまうため、篝火の光だけが頼りとなる暗い夜が最適とされている。
鵜飼いの期間中、鵜匠は毎日大量の小魚を用意して鵜たちの健康管理を行っている。
また鵜は非常に社会性の高い動物で群れの中でのヒエラルキーがはっきりしておりベテランの鵜が若い鵜に漁の仕方を教える様子も観察されている。
篝火に使用される松の木は、特定の山で採取された樹齢50年以上のものを使用している。この松材は樹脂を多く含んでおり水上でも安定して燃え続ける特性を持っている。1回の鵜飼いで使用される松材は約30キログラムにも及ぶ。
鵜匠の装束にも深い意味がある。

腰蓑は水しぶきから身を守るとともに、鵜縄を整理するための実用的な機能も持っている。胸当ては興奮した鵜から身を守るための防具としての役割もある。
世界に誇る文化遺産として

長良川鵜飼いは、現在では年間約10万人の観光客が訪れる一大観光資源となっている。外国人観光客も多く、特にヨーロッパやアメリカからの来訪者にとって鵜飼いは日本でしか体験できない貴重な文化体験として高く評価されている。

岐阜市は、鵜飼いのユネスコ無形文化遺産への登録を目指しており、世界的な文化遺産としての認知度向上に努めている。また姉妹都市である中国の杭州市との文化交流においても鵜飼いは重要な文化的シンボルとしての役割を果たしている。

長良川鵜飼いは、千三百年という歳月を経てもなお、その本質的な美しさと技術を保持し続けている。現代社会において失われがちな人と自然の調和、伝統技術の継承、そして文化の持続可能性について、多くの示唆を与え続ける貴重な文化遺産である。

篝火の光に照らされた鵜匠と鵜たちの姿は、過去から現在、そして未来へと続く日本文化の象徴として、これからも多くの人々に感動を与え続けることであろう。